毎年催される大宮の氷川神社の薪能、いつかは観に行きたいと思っていました。
知人からどんなに素晴らしいかと聞いたのは、もう何十年も前のこと、今年は34回目と言うことですから、始まった頃のことだったのかもしれません。
興味を持ちつつ、ついつい毎年見過ごしてしまっていましたが、今年とうとうその機会に恵まれました。
第34回大宮薪能(武蔵一宮氷川神社)
演目
素謡(金春流) 翁(おきな) 金春安明
能 (金春流) 敦盛(あつもり) 本田光洋
狂言(和泉流) 痩松(やせまつ) 野村万作
能 (宝生流) 葵上(あおいのうえ) 藤井雅之
昔の日本人はなんと驚くべき美学を心得ていたものだろうかと思います。
能で人々が受け継いで来たのは、勝ち戦の物語ではなく負け戦、またはそこで生じた後悔や無念の情、悲哀であったのだそうです。それを聞いて、なるほどと感慨深いものがありました。
影の部分にスポットを当てて、そこにいる人々の情感に思いを馳せるとは。
「敦盛」は平家物語の一場面。わが子と同じ十六歳の平敦盛を手にかけ、それが元で出家した熊谷直実(後の蓮生法師)、戦場だった一の谷で直実が読経していると敦盛が亡霊となって現われるという物語です。
織田信長が今川氏との決戦前夜に
「人生五十年。化天の内にくらぶれば。夢まぼろしのごとくなり。一度生を享け滅せぬもののあるべきか」と舞ったことで有名です。
決戦前夜であれば、勇ましい謡を披露するであろうに、「敦盛」を舞うとは、驚きます。
「敦盛」を観ながら、松尾芭蕉の俳句「夏草や兵どもが夢の跡」を思い出しました。
若くして戦に果てた敦盛、敦盛を打ち取ったことで出家した直実、それぞれの謡は胸にせまるものがありました。
アツモリソウ、クマガイソウは二人に由来する草花であると初めて知りました。
狂言「痩松」の可笑しさに声を立てて笑い、能「葵上」では生霊となった六条御息所の迫力と妖艶な美に引き込まれました。
それぞれまとう衣装も煌びやかで美しく、本当に日本の美を感じさせるものでした。
「能」は想像力を掻き立てる芸能と言います。
謡の言葉ははっきり言って、初心者の私には多くは聞き取れず、意味もおぼろげにしか理解できなかったのですが、3時間半もの長丁場にもかかわらず、全くその長さを感じずに浸ることができました。
薫風が吹きわたり、群青の空には三日月と星がくっきりと浮かんでいました。
かがり火の炎に照らされ、厳かな中に繰り広げられる舞台はやはり幽玄と言う言葉が相応しく思いました。 |