愛する人が亡くなった時は、胸を鷲掴みにされたような痛みを覚えるよね。
あなただって、ご主人が亡くなった時にそう感じたでしょう。
と、友人からの何気ない一言を受けて、何と答えて言いか分からず、思わず苦笑いでごまかしてしまった。
いえいえ、そう言うことじゃない。そう言う悲しみではない。
不思議だけど、その時、ひどく自分が惨めな感じがして、えっ、私ってまだ乗り越えられていない?
気付いてしまったのだ。そうだ、私、まだ乗り越えていなかったんだ。
そしておそらく、乗り越えられることは無いのだ。
それは、夫が逝った数日後だったと思う。
車を運転しながら、ああ、この鬱積する思いはずっと私の心に留まり、消えることは無いのだろうなと覚悟したのだった。
悲傷とも孤独とも喪失とも表現できない、どの言葉も当てはまらない。
まるで、大きな鉛の塊をどすんと打ち込まれたような感じ、
重く暗いどんよりした塊は動くことはない。
一生、この鉛を抱えたまま生きるしかないんだ。
観念して、受け入れる他に道は無い。
夫と共に暮らしていた頃、何はなくとも心は青空だった。
彼と会うまでは、そんな青空を見たこともなかったから、本当に驚きだった。
けれども、その澄み渡った青空をもう、見ることはないと思う。
ただ雲の合間にのぞくことはあっても。
だからと言って、不幸な訳ではない。十分に恵まれているし、しみじみと幸せを感じる日々を暮している。
けれども、そう言うことなのだ。
乗り越えてはいない。
乗り越えることは今後も無い。
ずっと、この重しと抱き合わせで生きて行く。そう、当たり前だが死ぬまでだ。 |