kaiだらけでごめん 海ちゃんのお気楽生活
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残す言葉 2017/06/28
kaiちゃんとは以心伝心。想いは伝わる。


数日前、東京新聞の本音のコラムに目が止まりました。
看護師の宮古あずさ氏が、がん患者の最期のことを書かれていました。

乳がんで闘病していた小林麻央さんが最期に「愛してる」と言い残して旅立ったことに関して、
麻央さんのご冥福を祈りつつ、ブログで読者に勇気を与え続けてきたことを称え、
しかし、実際には最期に会話できる人はほとんどいないと書いています。そのような最期は稀有なことなのだそうです。
病気の展開予想は難しく、大抵の患者さんは鎮痛剤で眠らされて、そのまま息を引き取るのが常だと。
「だから見送る人間にできるのは、話せる間にうんと話すこと」と宮古氏は書いています。

愛する人からの最期の言葉、残される者にしてみればどんなにかその言葉が欲しいことでしょう。
確かに、その言葉はその後の人生の支えとなるように思います。
また、最後どんな思いでいたのか知りたいとも望むでしょう。
もし、眠ったままに逝ってしまったら「ありがとう」と言われたかった、「愛してる」と言われたかった、そう思うのは当然のことです。

最期の言葉として、遺言を残す、もしくは手紙やメモを残す、そんなことも考えられます。
けれど、愛しているからこそ、あえてそれを残さないこともあるのではないでしょうか。
例えば、その言葉によって残された者を縛りたくない、いつまでも自分のことを想うことで前に進めないなんてことがないように。
あるいは、その人の信条やポリシーからむしろ残したくないということもあるでしょう。
もし私が死にゆく立場であるのなら、残さないかもしれません。

最期だけでなく、たくさんの言葉を思い出せるように、思い出してもらえるように、「話せる間にうんと話すこと」が大事なのですね。
元気な時にこそ、いっぱい話す、バカを言い合ったり、時には言い争いをしたり、なんということもない日常の会話、その一つひとつの言葉はみんな最後の言葉になるのだと思います。

突然倒れてそのまま亡くなってしまった夫との会話を私は毎日のように思い出します。二人でいる時は尽きることなくおしゃべりしていました。よくもまあ、他愛のないことを冗談をまじえてしゃべり続けたものだと思います。今となれば、そうやってお互いに言葉を交わして日々を暮らして来れたことに感謝せざるおえません。
本当は、その日ちょっと喧嘩をしてしまったのですけれど、そしてそれがなんとも悔しいのですけれど、彼が心に思っていたことは私には伝わっていました。だから、揺らぐことなく笑顔で彼の気持ちをおもんばかることができます。
最期の言葉、実はちゃんともらっていたのだと気付きました。
真実に生きる朝日新聞デジタルから 2017/04/25
胸に応える記事なので、自分のために。

******************************************************

 「やはり真実に生きるということができる社会をみんなで作っていきたいものだと改めて思いました」「今後の日本が、自分が正しくあることができる社会になっていく、そうなればと思っています。みながその方に向かって進んでいけることを願っています」

 これは、2013年10月27日、熊本県水俣市を初めて訪れた天皇が水俣病患者の話を聞いた後に述べた言葉である。事前に用意された「おことば」ではない。天皇が返礼に自らの思いを述べるのは異例である。日本の公害の原点とされる水俣病は、胎児も含め、筆舌に尽くし難い病苦を患者に与えただけでなく、差別や偏見の故に患者であることを隠す生き方までを多くの患者と家族に強いた。その苦しみに寄り添い「真実に生きる」ことを励ます天皇の言葉は、当時、優しい言葉と報じられた。

 優しい言葉である。だが、優しい以上の言葉である。差別と偏見の只中(ただなか)にあって自らを晒(さら)すことは勇気と覚悟を要するからである。それを励ますことは、ひとつの生き方を励ますことである。その生き方こそ「真実に生きる」ことである。

 「真実に生きる」という言葉、殊(こと)にその「に」には、どこか日本語として聞き慣れない響きがある。英語に堪能な天皇はlive trueという表現を想起していたかもしれない。live true (to)は、何かに忠実に生きるということである。「真実に生きる」とは、あるべき自分の生き方に忠実に生きることであり、それを天皇は、全ての個人に励まし、それができる社会へと向かう努力を自他に求めたのである。

     *

 天皇にとって、それは自らがそうありたいと思う生き方であったに違いない。2013年4月28日、政府は「主権回復の日」の式典を挙行した。第2次世界大戦後占領下に置かれた日本が独立したのが1952年4月28日。沖縄は本土復帰が叶(かな)わなかった。その61周年を祝う式典への出席を求める政府の事前説明に対し、天皇は「その当時、沖縄の主権はまだ回復されていません」と指摘した(毎日新聞2016年12月24日付)。先の大戦で国内最大の地上戦の戦場となった沖縄に対して、天皇は特別の思いを寄せ続けている。その天皇が、国政に関与したとの疑いを抱かれないよう細心の注意を払ってした発言が、この指摘である。

 この指摘は、短いが、あるべき自分の生き方に照らしての真実からする指摘であった。皇太子時代の1975年、沖縄を初めて訪れることになった天皇は、本土復帰から3年での訪問に「何が起こるかわかりません」と危惧した関係者に対し、「何が起きても受けます」と答えている。「受ける」という言葉には、父たる昭和天皇の名で行われた大戦で沖縄に甚大な被害を「与えた」以上、沖縄から何かを「受ける」のは自分であるとする苛烈(かれつ)な覚悟が見える。はたして、沖縄入りしたその日、過激派から火炎瓶が投げつけられた。その夜、皇太子(現天皇)は異例の談話を発表している。「払われた多くの尊い犠牲は、一時の行為や言葉によってあがなえるものではなく、人びとが長い年月をかけて、これを記憶し、一人ひとり、深い内省の中にあって、この地に心を寄せ続けていくことをおいて考えられません」

 即位後の天皇は、あるべき自分の生き方として自らのこの言葉に忠実に生きる道を選んだ。「長い年月をかけて、これを記憶し」、「深い内省の中にあって、この地に心を寄せ続けていく」は、ほかならぬ天皇自身の今日までの歩みそのものだろう。「一人ひとり」がすることをおいて考えられないことを、天皇自らがする。それは天皇が国民「一人ひとり」を「象徴」しているということではないか。天皇は、沖縄の人々をめぐって国民と自己との間に作られることを願った、ここに見たような関係の在り方に、憲法に書かれた「象徴」という概念の生きた姿を見出(みいだ)したように思われる。

     *

 「真実に生きる」ためには、あるべき自分の生き方に忠実であろうとする意思が必要である。天皇の場合、「日本国の象徴であり日本国民統合の象徴」(憲法1条)であるとはいかなることかを考え、絞り出すようにして出したその答えにふさわしく生きることが「真実に生きる」ことであった。それは、あるべき自分の生き方にしっかり向き合うこと ldo justice (to) であり、そうすることが「自分が正しくある」ことにほかならない。

 沖縄の人々が「屈辱の日」と呼んだその日を「希望と決意を新たにする日」(安倍晋三首相)と呼んで祝う式典 それが象徴するのは「国民統合」ではなく分断だろうそれに天皇は出席した。それは、天皇にとって、「真実に生きる」ことではなく、「自分が正しくある」ことでもない。その半年後、天皇は、水俣病患者たち、そして全ての個人に、「真実に生きる」こと、「自分が正しくある」ことを励ましたのである。

 天皇退位をめぐる政府の検討が大詰めを迎えている。天皇が自らの歩みをもって国民に問いかけ続けた「象徴」に関する議論は、まだほとんど聞こえてこない。

     ◇

 ありかわ・つねまさ 1964年生まれ。専門は憲法学。日本大学大学院法務研究科教授。著書に「尊厳と身分」「憲法的思惟」。
夢 2017/03/28

死が何が悲しいかと言えば、もう絶対に逢えないのだということです。
逢うことも触れることも、声を聴くことも話すことも、けっしてできません。

たとえ地の果てに別れ別れになっても、生きてさえいれば、どこかで再び逢える日が来る。
そんないちるの望みが残されているけれど、死んでしまったら、すべては終わってしまうのです。
あたりまえのことだけど、その現実に打ちのめされます。
さっきまでいたのに、今はもういないという事実。
触れた手の温かさ、見つめた瞳の輝き、規則正しい呼吸の音、匂いも感触も残っているのに、
もはや過ぎ去ってしまったという事実。

でもしかし、ふと考えます。
もしも死んだなら、別の世界で逢えるなんてことがあるのでしょうか、本当に。
そうであるのなら、その日を楽しみに生きていけます。
再会の瞬間を想像すれば、ぽーっと胸が熱くなります。
いてもたってもいられない気持ち。

そんなことを思う春の夜です。
ドビュッシーの「夢」を聴きながら。
今年最初のコンサート 2017/01/06
第173回 NTT東日本 N響コンサート
東京オペラシティ コンサートホール

モーツァルト/歌劇「フィガロの結婚」序曲
モーツァルト/ピアノ協奏曲 第9番 変ホ長調 K.271「ジュノム」
ドヴォルザーク/交響曲 第9番 ホ短調 作品95「新世界から」

指揮:広上淳一

ピアノ:小曽根 真

#LIVE
この世界の片隅に 2016/12/31
2016年最後はアニメ「この世界の片隅に」の映画を観て終わりました。
原作:こうの史代
監督・脚本:片渕須直

今迄のいわゆる「原爆・反戦映画」とは違っています。
どう違うのか、うまく説明できませんが、暗く重苦しい空気がおおっているのではなく、戦時の人々の生活がたんたんとそれもユーモアたっぷりに描かれていて、喜びや悲しみや怒りや後悔、もろもろの感情がじわーっと心に染み入ってくるのでした。

原作者のこうの史代さんは本(漫画)のあとがきでこう書いています。
「この作品では、戦時の生活をだらだら続く様子を描くことにしました。
そこにだって幾つも転がっていたはずの「誰か」の「生」の悲しみやきらめきを知ろうとしました。」

主人公のすずさんの発する言葉が今も胸によみがえります。
演じた能年玲奈さんの声と共に。(能年玲奈さん、今はのんさんですが、すずさんにぴったりでした。)
そして今、シリアやイラクをはじめ戦火のただなかにいる人々にも同じ生活があることに想いをはせました。

どうしても原作を読みたくなって、大人になって初めてコミックを購入してしまいました。
晩秋に2つの美術展 2016/12/08
二週続けて、気になっていた美術展に行って来た。
「デトロイト美術館展」と「ゴッホとゴーギャン展」だ。

「デトロイト美術館展」での目当てはゴッホの「自画像」麦わら帽子をかぶり鮮やかな青いスモッグを来た自画像だ、それと、モディリアニの「女の肖像」。
この二つを間近に観られただけで満足なのだが、他にもモネやドガ、ルノワール、セザンヌ、ゴーギャン、そしてピカソやマティス、52点もの名作が展示されていてものすごく見応えがあった。すべてを観終わったら、もうへとへとだった。
いつもそうなのだが、大抵の美術展では作品数が多すぎて、頭が飽和状態になるのは私だけだろうか。
一つひとつゆっくり観ていたら、いつまででも見切れない。このデトロイト美術館展も、できることなら何回でも来てじっくりみたいものだと思った。

さて、もう一つは「ゴッホとゴーギャン展」
またしても主役はゴッホさんだ。
ゴッホ対するゴーギャンと言う風に、つい比べてしまい、私は圧倒的にゴッホの方が好きだし、ゴーギャンはそれほどでも・・・なんて思い込んでいたのだけれど、ゴッホとゴーギャン展を観て、考えを改めさせられた。
ゴッホが好きなのには変わりないけれど、今回は独特な時には強烈な色彩をもって繰り広げられる想像の世界、暗示的とも言えるゴーギャンの絵に、すっかり魅せられてしまった。

特に「ブドウの収穫、人間の悲惨」「紡ぐブルターニュの少女」は意味を解釈するのは困難だが、暗示的な不思議な力に引き付けられる。また「木靴職人」の色合いの美しいことに驚いた。
「肘掛け椅子のひまわり」の前では、なかなか立ち去ることができなかった。二人の仲は破綻したと言われるゴッホとゴーギャンだが、ゴッホが亡くなった11年後にゴーギャンはこのひまわりの絵を描いたという、実は二人の友情はずっと続いていたという証拠であろう。

随分前に観た「我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか」を思い出し、再びあの絵が猛烈に観たくなった。

さて一方の私の大好きなゴッホ、今回は数ある自画像の中でも明るいイメージの「パイプと麦わら帽子の自画像」が素敵だった。
外に出てみるとすっかり宵闇となっていて、ぽっかり浮かぶお月さまがきれいだった。
読書中 2016/10/23
悲しい時は本を読む。これに限る。
悲しい時は仕事する。これも当たっているかもしれない。忙しくしていれば、くよくよする暇は無い。
でも、ふと気持ちが途切れれば、元の木阿弥だ。
なんの解決にもなっていない。

だから、本を読む。これに限る。
本の中の世界に入れば、悲しい自分も頼りない自分も愚かな自分ももういない。
そこから帰っていた時には、元の自分ではなくなっている。
なぜか清々しい気分だ。

それと、もう一つ、悲しい時は山を歩く。これはとびきりの効果がある。
森を歩くのもいいけれど、平坦な道ではなく山を登り、下るのが良い。
息を切らしてひたすら歩く。足を前に出す作業を繰り返しているうちに、頂上にたどり着く。
目の前に広がる山並みや樹々、流れる風に触れたら、些細なことにこだわり、心を奪われている自分に別れを告げることができる。
最近、めっきり山歩きをしなくなってしまった私が言うのもなんだけど。

さて、とりあえず今日は読書といこう。
日の当たる椅子に腰かけて、昼間から本をめくる日曜日、これほどの至福はないと言える。
かたわらに彼が寝そべっている。もちろん、彼とはkaiちゃんのこと。
お手本 2016/09/24
もうすぐ、12歳の海ちゃんです。

余命について考えています。
あなたの余命はどの位?と聞かれたら、おそらく30代のあなたなら40年?50年?
あなたよりずっと年を取っている私ならたぶん10年、20年でしょうか。
夫が亡くなってから、しょっちゅう、あと何年と数えつつ、考えつつ生きてきました。

そんなに長生きはしたくないのです。でもそれだけは誰にも分らない。
長生きしたくないと言いながら、美味しいものを食べて、あそこにもここにも行って、家族や友人とおしゃべりをしてといった具合に、生きる欲が死ぬほどあるのに呆れてしまいます。

人間も動物も、みな天命というのがあるのかなと思います。どんなにじたばたしてもその時は来るのですね。
私はそのしばらく前に余命を宣告されたいと願っています。不意打ちの死は免れたい。ちゃんと準備がしたいのです。

そんなことをつらつらと考えていたのですが、気付けば誰に宣告されるまでもなく、残り少ないのだと自覚するに至っています。
だから、もう準備時です。

さて、我が家の愛犬、kaiちゃんは11歳。来月12歳のお誕生日を迎えます。
彼の余命、そんなに長くは無いと年齢からも承知していますが、その時を想像するとうろたえてしまう私です。
しかし、悲しんでもその時は来る。むしろ彼の余命を意識して、しっかり毎日世話をして行かなくてはと自分に言い聞かせています。
我が家には彼の前に二頭の犬がいましたが、どちらもある日、何も予期することもなしに亡くなってしまいました。
もう突然というのはごめんです。できる限りの看病をして、最後までそばにいたいし、お別れも言いたいのです。

自分に話を戻しましょう。
私自身の余命、10年単位ではないかもしれません。数年かもしれないし、数か月、数日なんてこともありえますよね。
と言いながら、もっともっと生きてしまったらどうしましょう。
事実、全く長生きしそうだよねって、友人からは憎まれ口を叩かれる始末ですから、本当に。
ともあれ、明日をも知れずに私たちは生きているのです。
であれば、大事なことを一番に、そろそろ好きなことに重心をおいて行こうかなと思うこの頃です。

ここまで書いてしまったけれど、なんと贅沢なことを考えているのかと恥ずかしくなってきました。
世界には、実に明日をも知れず、厳しい状況に置かれている人々が何百万人、何千万人といるのですから。

悠長にのうのうとしていることなく、身を正さねば。
ひたすらに常に「今」だけを生きているkaiちゃんが、お手本です。
申し分のない極上の音楽 2016/08/02
ひと月ほど前の日曜の夜、小曽根真とチック・コリア、NHK交響楽団、指揮:尾高忠明による「モーツァルト 2台のピアノの協奏曲 変ホ長調K.365」の演奏がEテレで放映されていた。

見逃さなくて、本当に幸いだった。
それはそれは素晴らしかったから。録画していたので、何度も繰り返し観て聴いている。
思わずブラボーと手をたたき興奮していたら、かたわらで寝そべっていたkaiちゃんが、とび起きた。

奔放なチック・コリア氏と律儀な小曽根さん。
自由に音をあやつり愉しむ演奏に、モーツァルトがその場にいたら、眉をしかめただろうか。
息子に尋ねたら、いや、モーツァルトならそんなことないでしょうとひと言。
そう、おそらくモーツァルトさんなら、苦笑いしつつも喜んで拍手したに違いない。

アンコールのアルマンドズ・ルンバは圧巻だった。
アンコール演奏前に、譜面台をよいしょと片付けてしまってウィンクするお二人。
そして、まさに本領発揮の演奏にはうなってしまった。
常に新しいことを試み、進歩を遂げているお二人。ジャズやフュージョンにとどまらずクラシックのジャンルでも多く演奏している。


スマホで観客の写真を撮るおちゃめなチック・コリア氏、曲に入り込んで口をへの字にして演奏する真面目な小曽根さん。
いかにも楽しそうに指揮をする尾高忠明氏。
我々をひとり残らずぐいぐいと音楽の波の中に引き込んでいく。

モーツァルトに感謝!チック・コリアと小曽根真に、尾高忠明とN饗に、そしてすべての音楽家に感謝したくなった。
決して大げさではなく、確かに音楽は生きる歓びを呼び起こしてくれる。
がっかりすることばかりで、めげそうになったりあきらめたくなったり、そんなことの方が多い日常だけど、上質な音楽を聴いた時には、また前を向いて明るく生きようと思うのはきっと私だけではないだろう。

※放映されたのは、NHKクラシック音楽館
第1835回  2016年5月14日 N饗定期公演
モーツァルト/2台のピアノのための協奏曲 変ホ長調 K.365
指揮:尾高忠明
ピアノ:チック・コリア 小曽根真

今回の《2台のピアノのための協奏曲》の演奏での第1楽章と第3楽章のカデンツァは、チック・コリアによって作曲された短いモティーフに基づくものだそうだ。
生誕300年記念若冲展 2016/05/05
見応えありました。若冲展。
とにかく3時間待ちのうわさもあったので、覚悟して行きましたが、1時間ほどで入館できました。

それにしても、人・人・人。中も外も!ゴールデンウイークなのだから仕方ないか、ましてや超人気の若冲展。
テレビでも何度も伊藤若冲についての番組が放送されていましたしね。

しかし、その人混みにも負けず、じっくり観てはその都度、その素晴らしさに感嘆のため息をついてきました。

江戸時代に京都で活躍した画家・伊藤若冲(1716?1800)超絶技巧且つその斬新な絵には誰でもが目を見張ります。
今回のお目当ては「釈迦三尊像」3幅と「動植綵絵」30幅(宮内庁三の丸尚蔵館)。
それが一堂に会した様は圧巻でした。

今は家で図録を穴のあくほどに眺めています。
最終日5月24日までに、もう一度行けるかなあ。
ひとりで観劇 2016/04/23
あまり劇を観に行くことはないのですが、井上靖の「猟銃」を中谷美紀が演じると知って、思わずチケットを購入してしまいました。

井上靖と言えば、「氷壁」が有名でしょうか。夢中になって氏の作品を読み漁ったことがあります。
もっとも印象に残っていて繰り返し読んだのは「ある落日」だったかしら。清里の駅から山へ続く1本道を思い浮かべます。

「猟銃」は3人の女性の手紙で構成されています。
妻と愛人と愛人の娘、まったくタイプの異なる女性3人をどう演じるのかすごく興味がありました。

恐らく話題としたら、愛人の彩子が鏡も見ずに着物を見事に着付けるシーンでしょうか。それには驚きましたけれど、私としては、妻である赤いドレスのみどりが素晴らしかったと思うのです。

小説の中ではさまざまな色が出てきます。
「百日紅の毒々しい赤色」
「納戸のお羽織」
(劇では「納戸色」と言っていました。知らなかったのですが、納戸色とは緑色を帯びた深い青色だそうです。)
「プルシャンブルーの真冬の海」
「真っ赤に燃える船火事の情景」
「セピア色の蛇」
「真白い斑点の蛇」

その色のすべてを演技一つ一つで表現されていたと思います。
中谷美紀さん、素敵でしたよ。さすがでした!

そして、やはり井上靖氏の文章の巧みさ、美しさがこの劇を支えていました。
法悦のマグダラのマリア 2016/04/21
2014年に発見された「法悦のマグダラのマリア」を観たくて、カラヴァッジョの展覧会に足を運びました。

ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(1571-1610年)
殺人者にして天才画家という、バロック美術の巨匠です。

今回の展覧会では「バッカス」をはじめ11点が公開されています。
彼の作品には移動不可能な作品も多いため、点数は少ないのですがとても見応えがありました。

それとカラヴァッジョの継承者たちの作品群も多く展示されていました。
でもやはり、カラヴァッジョの作品は抜きん出ていました。

「法悦のマグダラのマリア」
祈り、懺悔、イエスへの愛と感謝の想いがこの表情になったのでしょうか。
眼をこらすと、うっすらと涙が一筋こぼれているのが認められました。

それと、背景、この暗闇の背景はなにを描いているのでしょう。
かすかに十字架が見えるような気がしたのですが、どうなんでしょうか。

いつまででもこの絵の前に立ち止まっていたい気持ちでした。
この絵と暮らしたいと思うほど。
ささやかながら、小さな絵葉書を買って部屋に飾ることにしました。
夢で逢えたら 2016/03/23
EIICHI OHTAKI DEBUT AGAIN & 吉田 美奈子 FLAPPER(2015 吉田 保 remastering)

吉田美奈子と言えば、はりのある伸びやかな高音の「夢で逢えたら」の歌声を思い出す。
大瀧詠一が彼女に提供した曲だ。

思い出の中には、必ずその時の音楽がある。

70年代終わりから80年代にかけて、その頃は子育てに忙しくしていたけれど、私の青春まっただ中でもあった。
私たちは若く結婚して子供を持ったから、青春と子育ては同時期だったのだ。
おんぼろサニーしかもエアコンなしで子連れで毎週海に出かけ、
TDKのテープADに好きな曲をダビングしては夢中で聴きまくっていた。
独身の友人たちがいつも小さなアパートの我が家を訪れてはわいわいがやがや賑やかだった。
途方もなく貧乏だったけれど、少しも悲壮感がなかった。
楽しくて楽しくて楽しくて、笑ってばかりで、毎日がおもしろくて、底抜けに明るい日々だった。

そんな時に聴いていた大瀧詠一のナイヤガラサウンド。
A LONG VACATION
EACH TIME
NIAGARA TRIANGLE

今聴けば、当時の私たちが目に浮かぶ。
ばかなことばかり言って、笑っていたあの頃。
いろいろな苦労もあったけれど、そんなの吹き飛ぶほど、心はどこまでも晴れ渡る濃い青空だった。

大瀧詠一さんが亡くなって2年が過ぎ、セルフカヴァーのアルバムが32年ぶりに発売された。
思わず、買ってしまった。彼の歌う「夢で逢えたら」が聴きたくて。

でもしかしだ、大瀧さんとしては、世に出してほしくなかったかもしれないとも思う。
これはデモテープ音源であって、あくまでも自分用だったのかななんて。
ともあれ、私はとっても嬉しいけれど。
心の芯 2015/10/23
時に助けられるというのは、この場合、決してないのだろうなと思う。
人生で時が解決することは、多くあるだろうけれど、これだけは解決してくれない。
むしろ、時が経つにつれて、じんじんと湧き出てくる痛みは大きくなるものだとわかった。

「心の芯からの悲しみなのですね。」と1年ほど前に夫を亡くされたある人は言った。
経験した者にしか、きっとわからない。
しばしの立ち話の中で、やはり涙こぼれる。
ドーナッツのしあわせ 2015/09/27
ドーナッツ、一緒に食べようよと言って、息子が買ってきてくれました。
夕べ、ドーナッツの話が出たからねって。

その話はこうです。
少し前の雨降りの日、娘と孫のみおちゃん、もうすぐ3歳、と駅前のパルコへお昼ご飯を一緒にしようと出掛けました。
ガラス張りのエレベーターは外の景色がよく見渡せます。
すーっと上がったら、ガラスにへばりついていたみおちゃんが叫びました。
「あーー、ドーナッツやさん」
時折、ママと入るドーナッツ屋さんが見えたのです。

ボールのように弾んだみおちゃんの声。
本当に驚いた、そして嬉しかったのでしょう。
何度も繰り返して
「ドーナッツやさんがみえた」
満員のエレベーターでは、そこここからくすっと笑う声。

しあわせなことだなと思います。
ママと食べるドーナッツ、手をお砂糖だらけにしながら、楽しいひととき。

他愛のないささやかな日常のひとこまですが、しあわせのおすそ分けをもらった気分でした。
そうして、世界のどの子供たちもそんなしあわせな時間を持てると良いのにと思いました。
ここから始める 2015/09/19
2015年9月19日未明 安保法制案は通ってしまった。
夜中のテレビ中継を見ていて、ふうっとため息。
国会前にはまだ多くの人々が反対の声を上げていた。私もその3時間前にはその人波に紛れていた。

それにしても、憲法について、平和について、かつてないほど考え、学んだ数か月であった。
5月にオール埼玉の平和集会に一人で出向いて以来、何度となく国会前の反対デモや集会に参加してきた。
国会前に行くと、私のように一人で参加している人も多く目についた。どのグループにも属していないけれど、やむに已まれず、ここに来ているという人達。
さまざまなチームやグループが活動する中で、とりわけ、SEALDsの若い人たちが私たちを牽引して、心を奮い立たせてくれたと思う。
一方で、いつも国会前に行くと、足をそろそろと運ぶお年寄りの方々に出会った。自宅からここまでたどり着くことさえ、きっと難儀なことであろうと思う。それでも、やはりやむに已まれずの思いで、杖をつきつつも足を運んでいる姿に、胸を打たれた。

デモになんて参加したって無駄、多数決なんだから仕方ないなどと思われていたかもしれないし、疎まれていたかもしれない。
とかく、政治的な話題を出すことは友人間でも御法度な雰囲気がある。
しかし、私は言わなければいけないと思うことは言おうと思う。
嫌われても、疎まれても、友人を失っても、もう怖くないという気持ちになっている。
何をしても変わらないというような冷笑主義には負けない。

先日2015年の世界平和度指数ランキングが発表された。
162ヶ国中、日本は8位である。
1位 アイスランド
2位 デンマーク
3位 オーストリア
4位 ニュージーランド
5位 スイス
6位 フィンランド
7位 カナダ
8位 日本

なんと軍隊を持たないアイスランドが1位である。
ちなみにアメリカは94位、シリアは最下位の162位。
8位の日本はアジアでは1位、しかし今後、この地位を守ることができるのだろうか。

さて、多くの学者達や弁護士達、デモに携わって来た人達が言うように、ここからが始まりだと思う。
もう安保関連法の廃止に向けて動き出している。
共産党・志位委員長は野党共闘「反安保国民連合構想」を打ち出している。野党には団結して頑張ってほしい。
それには、声を上げて行かねばならない。今回、私たち一人ひとりの声が後押しするということをわかったのだから。
絶対に止めるという気持ちで。
壊された立憲主義とデモクラシーを取り返そう。
一人ひとりの声は小さくても、その努力はずっと続けて行かなければならない。
学び、考え、他の意見にも耳を傾け、議論し、これからも不断の努力を続ける。
何も、肩ひじ張って、目を三角にしてと言うわけではなく、毎日の生活の中でそのことを頭に置き、自然にできることをする。
誰かにお任せするのではなく、自分のできる範囲で、またはできる範囲を少し広げて努力して行こう。
ややもすると、諦めたくなる自分を叱咤しつつ。
義を見てせざるは勇無きなり 2015/09/09
16日にも安保法制案の強行採決が実施されるとのニュースが流れました。
あまりの暴挙に、それこそ腹の底から怒りが沸いてきます。

9月14日(月)は『戦争法案廃案!国会正門前行動』に集まりましょう。
今、目が回るほどに仕事で忙しくしているのですが、それでも、絶対に参加します。
『義を見てせざるは勇無きなり』


9月4日の国会前での丹下紘希さんのスピーチが素晴らしかったので、以下、自分のためにアップしておきます。

--------
Facebok 小原 美由紀さんの書き起こしです。

映像作家の丹下紘希さんのスピーチでーす!素晴らしかった(>_<)
「そうだ!」、「そうだ?!」という声がすごく大きく、
若者たちの共感をがっちりと得たようでした。 動画もともにぜひっ!

後半は、奥田愛基くんの、これからの行動予告です!要チェック!

≪ 9月4日 国会前 丹下紘希さんのスピーチ、
      原案をいただき、当日の言葉になおしました! ≫

僕もいい年なんで、働き盛りで自由な魂を持ってここに集まってくれた人達にほんとに感謝します!

個人の意思を表明することを認めてくれた会社や、クライアントや取引先や施工業者の人々に感謝します!

仕事をしてると自分が会社の迷惑になってはいけないんだと、つい思ってしまうかもしれないけど、
僕はそうしてる間に自分がいつの間にか加害者になってしまう方が、よっぽど怖いんです。 

経団連に働きかけて広告費を削減するよう言えばメディアを黙らせることが出来るとか、言ってましたが、
企業と政治がくっついて口封じになっていくのはまともな社会じゃない。

利益にならないことは無視という社会ですよ。それなら原発も止められないし、戦争も止められないんじゃないですか。 

戦争はビジネスです。

僕が一番危ないと思ってるのは、
戦争がみんなの仕事になっていくことです。

しかも知らないあいだにそうなってしまう可能性があるんですよ。

2013年8月にシリアでアサド政権が化学兵器サリンを使用し自国民を大量虐殺していました。
これに反対する声明を欧米各国はあげたけれど、その原材料を売ったのはヨーロッパ各国ですよ。

でもね、いくつかの中間業者をはさんだら、わかんなくなっちゃうんですよ。自分が戦争に手を染めたって実感がなくなっちゃうんですよ。

実感なく戦争が進む、罪悪感なく簡単に人を殺していくような戦争が今の戦争です。

アメリカが今も年間に400回以上もドローンで空爆をしている。
武器製造や輸出の戦争ビジネスに間接的にみんなが関わり出したらみんな抜け出せなくなっちまうんですよ! 

生活の糧を得るサイクルに知らないうちに入らされて、生活がかかってるからと、金に言論を奪われ、意思を剥奪されていく。

さらに危ないと感じるのは、国が防衛を語るときに『日本を守る、国を命がけで守る』ということをヒロイックに防衛を語る時です。

国に任せれば大丈夫なんてことはないし、国防、国防ってカッコイイ風に思ってること自体かっこ悪いっすよ。

国を守るんじゃなくて、相手も自分も殺し合わないように
お互いの命を守りましょうよ! 

その為に、国ってことでかたづけちゃうんではなく、
自分たち1人1人が平和の為に出来ることをやるんです。

イタズラに近隣諸国を知りもしないで危険をあおるのは、
よほど危険なんじゃないですかね?  

自民党のみなさん、民主主義は多数決ではないですよ。

民主主義とは我々国民一人一人に主権があるってことです。

だから、僕たち 一人一人が考えていきますよ。

一国の首相だろうが、僕ら国民だろうが、関係ないんです。

何故過去に人類が戦争をし続けて、今も戦争がなくならないのか?
そういった根本の真実を求めるべきではないでしょうか?

どうしたらお互いを恨まず、誰も殺さずにいられるかを、考えたいんです。

それに、過去の戦争に対して「反省をしている」という一言が言えない人が首相であって良いはずがない。 

人間とは、自分とは、ちっぽけな1人として意思を持つ生き物です。

僕らは国というものに所属する以前に一個人です。
いつだって個人に、1人になればいい。

安倍首相、あなたも首相という役職を降りて個人になったらどうですか?

ほんとにね、僕は1人の人間として、
自分の子どもを、被害者にも加害者にもしたくないですよ。

本当のことを言ってくださいよ!

自民党の看板も全部脱ぎ捨てて、
あなたたちは1人の人間としてどうなんですか?

1人の父親、母親として自分の子どもが
誰かに殺したいほど恨まれる、そんなことでいいんですか?

僕らはね、友人よりも家族よりも国が大事なのかどうか、
ずっと問われています。

政治家のやることは、利益だけのためになにかをするんじゃないんですよ。

本当に、アメリカがパートナーだと言うなら、アメリカの戦争だって、僕らはやめろ、っていってやったほうがいいですよ。 
それが友情ってもんじゃないですか。 

もっともっと僕らは 命より金が大事なのかどうかギリギリの状態にどんどん追い詰められていく。そして慣れていってしまうんですよ、そういう状況に。そして考えなくなっちゃうんです。

これまでの歴史の中で 何度も何度も、
それが重なって戦争につながっていったんじゃないですか。

ココに集まる若者たちを見てくださいよ。

金の為に仕方なく自分たちを捨てるような子はいないですよ。

ヘイトが渦巻く演出にも、屈しないですよ。

なぜなら思考を手放せば、自由が無くなる事を知っているから!

僕らの考え方はね、国境なんかに縛られないですよ。

国ではなくて、人を見てるからなんです。

どの国も超えて、みんなそこには人がいるんです。

その人を、友達としてかんがえられる

そう言う気持ち、
そういう美しいものを信じられなかったら、

なにを僕ら、信じて生きていけばいいんですか!

そんなこともできなかったら、ほんとに絶望しかない。

国の為に頑張ります、という政治家じゃなく、
人の為に頑張る政治家を探しましょうよ。

政治家だってみんな若者だったんですよね。

いろいろ意見の違いはあれども、
今、声を上げているこの学生たちを
この希望の灯を決して消さぬよう。

おとなたち、おっちゃんたち、おばちゃんたちも、
どうか見守っていてください。

よろしくお願いしまーす!

PEACE !

( 大歓声!  「カッコいい!」の声 )

******

<奥田愛基くん>

映像作家の丹下紘希さんでした!
もう一度、大きな拍手をお願いします!

僕も小さいころから、丹下さんの作品をよく見てたんですけど、ミスチルとか。、丹下さんくらいですよ、911が起きた時に、反戦広告をスペースシャワーTV唯一ひとりだけ、つくった人ですよ。
ただ単に戦争だめです、っていう、なんのコマーシャルにもなってない。
でも、メッセージがあるんですよ。人、大事にしろ、って

原発のこととか沖縄の基地をみてると、わかります。

この法案が通って、有事が起こった時に、
そうは言っても基地で働いてる。
そうは言っても家族が原発で働いてるから、って。
抗議できなくなるわけですよ。
そこに縛られてくんですよ。

NHKの番組で武器の売人たちは、『日本がうらやましい』って言ってました。武器ってのは2年3年の消費期限があるんですよ。つかいきれなかったらまた新しいのを売らなきゃいけないんですよ、それが仕事になっちゃうんですよ。

武器の製造輸出のサイクルに入っていったら
もう止めることできないんですよ。
まだそれは日本で起こっていない。
それが起こる前に、止めなきゃいけないんですよ。

何回でも言います、もう何千回でも言いますけど、

憲法守ったほうがいいですよ。

憲法がない国はありますよ、独裁国家と呼ばれる国ですが。

ただ、そこに民がいない国はないですよ。
そうでしょう。
だからまず、俺たちをみろ、って話ですよ。

戦争反対!
戦争反対!

***

今日は6000人とか5000人とか来てくれてて、10週連続とか、皆勤賞の人もいると思うんですが。
もっかい、もっかい、あの8月30日みたいの、やりましょう。(大歓声)

スケジュールはぶっちゃけわかんない。
ただ「日刊ゲンダイ」ってのがあるんですが(笑)、読んでみると「9月15日だ」って。「え??ほんとに??」って。
いろんなとこに聞いてみると9月14日だと。ものすごい人が集まると。SEALDsも賛同団体になってます。

今 木金で分かれてますが、実は、えー、来週から木曜日もやります!
金曜日もやります!!と!

総がかり行動がなんと月曜日から金曜日まで来るって!それに、ぼくもできる限り来ますし、メンバーも来ます。

14日がまた月曜日なんですよね、でも国会は平日しかないってことで。

「通る」ってなったら、新聞各紙に出ると思います。
その日は絶っ対来てください!
その日はもう、立てないくらいに人、集めましょう。

総がかりのスケジュールをみるとですね。俺らのじいちゃんばあちゃん位の人が『全力で取り組む』ってことなんで、やりましょう!

知らない人にどんどん知らせてください、まだまだできること、たくさんあると思うので。

それからパンフレットも16ページに増やして新しくなりましたので、
要チェックでお願いします。

そしてカギを握るのは、自民党総裁選!

『義を見てせざるは勇無きなり』(周りから声が起こる)
『義を見てせざるは勇無きなり』
『義を見てせざるは勇無きなり』

また、あつまりましょう!
6日、よろしくお願いします。

おつかれさまでした!

解散!

+*+*+*+*+*

動画はこちら(31分ごろから)
http://www.ustream.tv/recorded/72395829
日本国憲法-戦争放棄条項等の生まれた事情 2015/08/06
自らのために、またもしも読んでくださる方がいるのであれば、あなたのために、日本国憲法について、「みんなの知識 ちょっと便利帳」ページから転載しています。

http://www.benricho.org/kenpou/shidehara-9jyou.html

幣原喜重郎元首相が語った
日本国憲法 - 戦争放棄条項等の生まれた事情について

幣原喜重郎(1872-1951)
 1946年(昭和21年)に公布された「日本国憲法にほんこくけんぽう」の誕生に関わり、とりわけ「戦争の放棄」を謳った第九条の成立に大きな役割を果たしたとされる 幣原喜重郎 しではらきじゅうろう [1]元首相が、亡くなる直前に戦争放棄条項などが生まれた事情などについて語っている。
 聞き手は衆議院議員であり、幣原の秘書官であった平野三郎[2]で、聞き取りは、幣原が亡くなる10日ほど前の1951年(昭和26年)[3]2月下旬に行われたとされる。

 幣原は、『口外無用』として平野に語ったとされるが、平野は、「昨今の憲法制定の経緯に関する論議の状況にかんがみてあえて公にすることにした」とし、『幣原先生から聴取した戦争放棄条項等の生まれた事情について』と題されたその文書は、1964年(昭和39年)2月に憲法調査会[4]事務局によって印刷に付され調査会の参考資料として正式に採択された。

 これが、いわゆる「平野文書」で、現在は国立国会図書館憲政資料室に保管されている。

 平野は、この文書を書いた経緯を、自身の著書『平和憲法の水源 - 昭和天皇の決断』(1993年・平成5年刊)で次のように記している。


 憲法調査会の審議が大詰めを迎えたある日、(中略)高柳会長[5]から面会の申し込みがあった。(中略)
  高柳会長は重大な決意を込めて言った。
「私はたまたま憲法の番人の役目を仰せつかった。私は番人に徹する積もりです。私は少なくとも第九条は未来永劫ふれるべきではないと思っている。自衛権は本来的にあるという意見があるが、未だかつて自ら侵略と称した戦争はなく、すべて自衛戦争ですから、一つ歯止めを外したら結局は元の木阿弥に戻ってしまう」
 高柳会長の話は、さらに天皇とマッカーサーに及んだ。
「(中略)天皇は何度も元帥を訪問されている。(中略)天皇は提言された。むしろ懇請だったかもしれない。決して日本のためだけでない。世界のため、人類のために、戦争放棄という世界史の扉を開く大宣言を日本にやらせて欲しい。(中略)天皇のこの熱意が元帥を動かした。もちろん幣原首相を通じて口火を切ったのですが、源泉は天皇から出ています。(中略)天皇陛下という人は、何も知らないような顔をされているが、実に偉い人ですよ」
 最後に高柳会長は、「ところで、あんた、幣原さんから聞いた話を一つ書いてくれませんか」と言われた。
 これは困った。たしかに話は聞いてはいるが、ただ聞いたというだけで具体的な資料はなにもない。私はお断りした。
 それに対し、博士は、
「いや、あなたが幣原さんの秘書だったことは確かな事実だ。秘書なら話を聞く機会があって当然である。だからあなたの話なら、根拠がない訳ではない。実は調査会もそろそろ結論を出さねばならない。問題は、米国製か、日本製かということだが、幸い日本製だというマッカーサーの証言がある。しかし、アメリカの話である。どうしても日本側の証拠が必要だが、それがないので困っている。ついてはぜひ、あんたお願いします」
 というのであった。
 そこで、『幣原先生から聴取した戦争放棄条項等の生まれた事情について』という報告書を私は提出した。

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【平野三郎の憲法調査会への『報告書』による、主な幣原の言】(括弧内は平野の質問の要旨)

(第九条は現在占領下の暫定的な規定ですか、何れ独立の暁には当然憲法の再改正をすることになる訳ですか)一時的なものではなく、長い間僕が考えた末の最終的な結論というようなものだ。

(軍隊のない丸裸のところへ敵が攻めてきたら、どうする訳なのですか)それは死中に活だよ。一口に言えばそういうことになる。

次の戦争は短時間のうちに交戦国の大小都市が悉く灰燼に帰して終うことになるだろう。そうなれば世界は真剣に戦争をやめることを考えなければならない。そして戦争をやめるには武器を持たないことが一番の保証になる。

相手はピストルをもっている。その前に裸のからだをさらそうと言う。何と言う馬鹿げたことだ。恐ろしいことだ。自分はどうかしたのではないか。若しこんなことを人前で言ったら、幣原は気が狂ったと言われるだろう。正に狂気の沙汰である。しかしそのひらめきは僕の頭の中でとまらなかった。どう考えてみても、これは誰かがやらなければならないことである。恐らくあのとき僕を決心させたものは僕の一生のさまざまな体験ではなかったかと思う。何のために戦争に反対し、何のために命を賭けて平和を守ろうとしてきたのか。今だ。今こそ平和だ。今こそ平和のために起つ秋[6]ではないか。そのために生きてきたのではなかったか。

僕は平和の鍵を握っていたのだ。何か僕は天命をさずかったような気がしていた。非武装宣言ということは、従来の観念からすれば全く狂気の沙汰である。だが今では正気の沙汰とは何かということである。武装宣言が正気の沙汰か。それこそ狂気の沙汰だという結論は、考えに考え抜いた結果もう出ている。要するに世界は今一人の狂人を必要としているということである。何人かが自ら買って出て狂人とならない限り、世界は軍拡競争の蟻地獄から抜け出すことができないのである。これは素晴らしい狂人である。世界史の扉を開く狂人である。その歴史的使命を日本が果たすのだ。

(他日独立した場合、敵が口実をつけて侵略したら)その場合でもこの精神を貫くべきだと僕は信じている。そうでなければ今までの戦争の歴史を繰り返すだけである。然も次の戦争は今までとは訳が違う。僕は第九条を堅持することが日本の安全のためにも必要だと思う。

(憲法は先生の独自の御判断で出来たものですか。一般に信じられているところは、マッカーサー元帥の命令の結果ということになっています)そのことは此処だけの話にして置いて貰わねばならないが、〈中略〉憲法は押しつけられたという形をとった訳であるが、当時の実情としてそういう形でなかったら実際に出来ることではなかった。そこで僕はマッカーサーに進言し、命令として出して貰うように決心したのだが、これは実に重大なことであって、一歩誤れば首相自らが国体と祖国の命運を売り渡す国賊行為の汚名を覚悟しなければならぬ。〈中略〉幸い僕の風邪は肺炎ということで元帥からペニシリンというアメリカの新薬を貰いそれによって全快した。そのお礼ということで僕が元帥を訪問したのである。それは昭和二十一年の一月二十四日である。その日、僕は元帥と二人切りで長い時間話し込んだ。すべてはそこで決まった訳だ。

世界の共通の敵は戦争それ自体である。

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・ここまで敬称を省略しています。
・ここまでの平野氏による文書の内容と、以下の資料は、国立国会図書館憲政資料室所蔵の「憲法調査会資料(西沢哲四郎旧蔵[7])」より、「資料請求番号165」の『幣原先生から聴取した戦争放棄条項等の生まれた事情について ? 平野三郎氏記』を、当サイトが国立国会図書館複写サービスを利用して入手し、引用したものです。
・資料の引用にあたっては、縦書きの原文を横書きに変更しました。また、閲覧される方の視認性に鑑み、「問」と「答」の段落に原文にはない装飾を加え、さらに本文中に改行を加えるなどしています。また、登場する人物などについて原文にはない脚注を付けています。
・「第一部」の、平野氏による「前文」に当たる部分に『内拘』という言葉が見られます。『なお、当日の幣原先生のお話の内拘については、このメモにもあるように、』の部分で、これは『内容』の誤植ではないかと思われます(ご利用の方からご指摘をいただきました)が、「憲法調査会資料」の原文がそのようになっているため、『拘』の字に「ママ」とルビを振り、『内 拘ママ 』と表記して原文のままとしました。
・転載・引用に制限はありませんが、転載・引用をされる場合は、「みんなの知識 ちょっと便利帳』からであることを明記し、できるだけこのページへのリンク、もしくはURL( http://www.benricho.org/kenpou/shidehara-9jyou.html )を表記をしてください。






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昭和三十九年二月

幣原先生から聴取した戦争放棄条項等の生まれた事情について

ー平野三郎氏記?

憲法調査会事務局

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はしがき

 この資料は、元衆議院議員平野三郎氏が、故幣原喜重郎氏から聴取した、戦争放棄条項等の生まれた事情を記したものを、当調査会事務局において印刷に付したものである。
 なお、この資料は、第一部・第二部に分かれているが、第一部・第二部それぞれの性格については、平野氏の付されたまえがきを参照されたい。

  昭和三十九年二月           

憲法調査会事務局




  第一部

 私が幣原先生から憲法についてのお話を伺ったのは、昭和二十六年二月下旬である。同年三月十日、先生が急逝される旬日[8]ほど前のことであった。場所は世田谷区岡本町の幣原邸であり、時間は二時間ぐらいであった。
 側近にあった私は、常に謦咳[9]にふれる機会はあったが、まとまったお話を承ったのは当日だけであり、当日は、私が戦争放棄条項や天皇の地位について日頃疑問に思っていた点を中心にお尋ねし、これについて幣原先生にお答え願ったのである。
 その内容については、その後間もなくメモを作成したのであるが、以下は、そのメモのうち、これらの条項の生まれた事情に関する部分を整理したものである。
 なお、当日の幣原先生のお話の内拘ママについては、このメモにもあるように、幣原先生から口外しないようにいわれたのであるが、昨今の憲法制定の経緯に関する論議の状況にかんがみてあえて公にすることにしたのである。


問  かねがね先生にお尋ねしたいと思っていましたが、幸い今日はお閑のようですから是非うけたまわり度いと存じます。

 実は憲法のことですが、私には第九条の意味がよく分りません。あれは現在占領下の暫定的な規定ですか、それなら了解できますが、そうすると何れ独立の暁には当然憲法の再改正をすることになる訳ですか。

答  いや、そうではない。あれは一時的なものではなく、長い間僕が考えた末の最終的な結論というようなものだ。


問  そうしますと一体どういうことになるのですか。軍隊のない丸裸のところへ敵が攻めてきたら、どうするという訳なのですか。

答  それは死中に活だよ。一口に言えばそういうことになる。


問  死中に活と言いますと … … …

答  たしかに今までの常識ではこれはおかしいことだ。しかし原子爆弾というものが出来た以上、世界の事情は根本的に変わって終ったと僕は思う。何故ならこの兵器は今後更に幾十倍幾百倍と発達するだろうからだ。恐らく次の戦争は短時間のうちに交戦国の大小都市が悉く灰燼に帰して終うことになるだろう。そうなれば世界は真剣に戦争をやめることを考えなければならない。そして戦争をやめるには武器を持たないことが一番の保証になる。


問  しかし日本だけがやめても仕様がないのではありませんか。

答  そうだ。世界中がやめなければ,ほんとうの平和は実現できない。しかし実際問題として世界中が武器を持たないという真空状態を考えることはできない。

 それについては僕の考えを少し話さなければならないが、僕は世界は結局一つにならなければならないと思う。つまり世界政府だ。世界政府と言っても、凡ての国がその主権を捨てて一つの政府の傘下に集るようなことは空想だろう。だが何らかの形に於ける世界の連合方式というものが絶対に必要になる。何故なら、世界政府とまでは行かなくとも、少くも各国の交戦権を制限し得る集中した武力がなければ世界の平和は保たれないからである。凡そ人間と人間、国家と国家の間の紛争は最後は腕づくで解決する外はないのだから、どうしても武力は必要である。しかしその武力は一個に統一されなければならない。二個以上の武力が存在し、その間に争いが発生する場合、一応は平和的交渉が行われるが、交渉の背後に武力が控えている以上、結局は武力が行使されるか、少なくとも武力が威嚇手段として行使される。したがって勝利を得んがためには、武力を強化しなければならなくなり、かくて二個以上の武力間には無限の軍拡競争が展開され遂に武力衝突を引き起こす。すなわち戦争をなくするための基本的条件は武力の統一であって、例えば或る協定の下で軍縮が達成され、その協定を有効ならしむるために必要な国々か進んで且つ誠意をもってそれに参加している状態、この条件の下で各国の軍備が国内治安を保つに必要な警察力の程度にまで縮小され、国際的に管理された武力が存在し、それに反対して結束するかもしれない如何なる武力の組み合せよりも強力である、というような世界である。

 そういう世界は歴史上存在している。ローマ帝国などもそうであったが、何より記録的な世界政府を作った者は日本である。徳川家康が開いた三百年の単一政府がそれである。この例は平和をを維持する唯一の手段が武力の統一であることを示している。

 要するに世界平和を可能にする姿は、何らかの国際的機関がやがて世界同盟とでも言うべきものに発展し、その同盟が国際的に統一された武力を所有して世界警察としての行為を行う外はない。このことは理論的には昔から分かっていたことであるが、今まではやれなかった。しかし原子爆弾というものが出現した以上、いよいよこの理論を現実に移す秋[10]がきたと僕は信じた訳だ。


問  それは誠に結構な理想ですが、そのような大問題は大国同志が国際的に話し合って決めることで、日本のような敗戦国がそんな偉そうなことを言ってみたところでどうにもならぬのではないですか。

答  そこだよ、君。負けた国が負けたからそういうことを言うと人は言うだろう。君の言う通り、正にそうだ。しかし負けた日本だからこそ出来ることなのだ。

 恐らく世界にはもう大戦争はあるまい。勿論、戦争の危険は今後むしろ増大すると思われるが、原子爆弾という異常に発達した武器が、戦争そのものを抑制するからである。第二次大戦が人類が全滅を避けて戦うことのできた最後の機会になると僕は思う。如何に各国がその権利の発展を理想として叫び合ったところで、第三次世界大戦が相互の破滅を意味するならば、いかなる理想主義も人類の生存には優先しないことを各国とも理解するからである。

 したがって各国はそれぞれ世界同盟の中へ溶け込む外はないが、そこで問題はどのような方法と時間を通じて世界がその最後の理想に到達するかということにある。人類は有史以来最大の危機を通過する訳だが、その間どんなことが起るか、それはほとんど予想できない難しい問題だが、唯一つ断言できることは、その成否は一に軍縮にかかっているということだ。若しも有効な軍縮協定ができなければ戦争は必然に起るだろう。既に言った通り、軍拡競争というものは際限のない悪循環を繰り返すからだ。常に相手より少しでも優越した状態に己れを位置しない限り安心できない。この心理は果てしなく拡がって行き何時かは破綻が起る。すなわち協定なき世界は静かな戦争という状態であり、それは嵐の前の静けさでしかなく、その静けさがどれだけ持ちこたえるかは結局時間の問題に過ぎないと言う恐るべき不安状態の連続になるのである。

 そこで軍縮は可能か、どのようにして軍縮をするかということだが、僕は軍縮の困難さを身をもって体験してきた。世の中に軍縮ほど難しいものはない。交渉に当たる者に与えられる任務は如何にして相手を偽瞞するかにある。国家というものは極端なエゴイストであって、そのエゴイズムが最も狡猾で悪らつな狐狸となることを交渉者に要求する。虚々実々千変万化、軍縮会議に展開される交渉の舞台裏を覗きみるなら、何人も戦慄を禁じ得ないだろう。軍縮交渉とは形を変えた戦争である。平和の名をもってする別個の戦争であって、円滑な合意に達する可能性などは初めからないものなのだ。

 原子爆弾が登場した以上、次の戦争が何を意味するか、各国とも分るから、軍縮交渉は行われるだろう。だが交渉の行われている合間にも各国はその兵器の増強に狂奔するだろう。むしろ軍縮交渉は合法的スパイ活動の場面として利用される程である。不信と猜疑がなくならない限り、それは止むを得ないことであって、連鎖反応は連鎖反応を生み、原子爆弾は世界中に拡がり、終りには大変なことになり、遂には身動きもできないような瀬戸際に追いつめられるだろう。

 そのような瀬戸際に追いつめれても各国はなお異口同音に言うだろう。軍拡競争は一刻も早く止めなければならぬ。それは分っている。分ってはいるがどうしたらいいのだ。自衛のためには力が必要だ。相手がやることは自分もやらねばならぬ。相手が持つものは自分も持たねばならぬ。その結果がどうなるか。そんなことは分らない。自分だけではない。誰にも分らないことである。とにかく自分は自分の言うべきことを言っているより仕方はないのだ。責任は自分にはない。どんなことが起ろうと、責任は凡て相手方にあるのだ。

 果てしない堂々巡りである。誰にも手のつけられないどうしようもないことである。集団自殺の先陣争いと知りつつも、一歩でも前へ出ずにはいられない鼠の大群と似た光景 ? それが軍拡競争の果ての姿であろう。

 要するに軍縮は不可能である。絶望とはこのことであろう。唯もし軍縮を可能にする方法があるとすれば一つだけ道がある。それは世界が一せいに一切の軍備を廃止することである。

 一、二、三の掛声もろとも凡ての国が兵器を海に投ずるならば、忽ち軍縮は完成するだろう。勿論不可能である。それが不可能なら不可能なのだ。

 ここまで考えを進めてきた時に、第九条というものが思い浮かんだのである。そうだ。もし誰かが自発的に武器を捨てるとしたら ー

 最初それは脳裏をかすめたひらめきのようなものだった。次の瞬間、直ぐ僕は思い直した。自分は何を考えようとしているのだ。相手はピストルをもっている。その前に裸のからだをさらそうと言う。何と言う馬鹿げたことだ。恐ろしいことだ。自分はどうかしたのではないか。若しこんなことを人前で言ったら、幣原は気が狂ったと言われるだろう。正に狂気の沙汰である。

 しかしそのひらめきは僕の頭の中でとまらなかった。どう考えてみても、これは誰かがやらなければならないことである。恐らくあのとき僕を決心させたものは僕の一生のさまざまな体験ではなかったかと思う。何のために戦争に反対し、何のために命を賭けて平和を守ろうとしてきたのか。今だ。今こそ平和だ。今こそ平和のために起つ秋ではないか。そのために生きてきたのではなかったか。そして僕は平和の鍵を握っていたのだ。何か僕は天命をさずかったような気がしていた。

 非武装宣言ということは、従来の観念からすれば全く狂気の沙汰である。だが今では正気の沙汰とは何かということである。武装宣言が正気の沙汰か。それこそ狂気の沙汰だという結論は、考えに考え抜いた結果もう出ている。

 要するに世界は今一人の狂人を必要としているということである。何人かが自ら買って出て狂人とならない限り、世界は軍拡競争の蟻地獄から抜け出すことができないのである。これは素晴らしい狂人である。世界史の扉を開く狂人である。その歴史的使命を日本が果たすのだ。

 日本民族は幾世紀もの間戦争に勝ち続け、最も戦斗的に戦いを追求する神の民族と信じてきた。神の信条は武力である。その神は今や一挙に下界に墜落した訳だが、僕は第九条によって日本民族は依然として神の民族だと思う。何故なら武力は神でなくなったからである。神でないばかりか、原子爆弾という武力は悪魔である。日本人はその悪魔を投げ捨てることに依て再び神の民族になるのだ。すなわち日本はこの神の声を世界に宣言するのだ。それが歴史の大道である。悠々とこの大道を行けばよい。死中に活というのはその意味である。


問  お話の通りやがて世界はそうなると思いますが、それは遠い将来のことでしょう。しかしその日が来るまではどうする訳ですか。目下の処は差当り問題ないとしても、他日独立した場合、敵が口実を設けて侵略してきたらです。

答  その場合でもこの精神を貫くべきだと僕は信じている。そうでなければ今までの戦争の歴史を繰り返すだけである。然も次の戦争は今までとは訳が違う。

 僕は第九条を堅持することが日本の安全のためにも必要だと思う。勿論軍隊を持たないと言っても警察は別である。警察のない社会は考えられない。殊に世界の一員として将来世界警察への分担負担は当然負わなければならない。しかし強大な武力と対抗する陸海空軍というものは有害無益だ。僕は我国の自衛は徹頭徹尾正義の力でなければならないと思う。その正義とは日本だけの主観的な独断ではなく、世界の公平な与論に依って裏付けされたものでなければならない。そうした与論が国際的に形成されるように必ずなるだろう。何故なら世界の秩序を維持する必要があるからである。若し或る国が日本を侵略しようとする。そのことが世界の秩序を破壊する恐れがあるとすれば、それに依て脅威を受ける第三国は黙ってはいない。その第三国との特定の保護条約の有無にかかわらず、その第三国は当然日本の安全のために必要な努力をするだろう。要するにこれからは世界的視野に立った外交の力に依て我国の安全を護るべきで、だからこそ死中に活があるという訳だ。


問  よく分りました。そうしますと憲法は先生の独自の御判断で出来たものですか。一般に信じられているところは、マッカーサー元帥[11]の命令の結果ということになっています。尤も草案は勧告という形で日本に提示された訳ですが、あの勧告に従わなければ天皇の身体も保証できないという恫喝があったのですから事実上命令に外ならなかったと思いますが。

答  そのことは此処だけの話にして置いて貰わねばならないが、実はあの年(昭和二十年)の暮から正月にかけ僕は風邪をひいて寝込んだ。僕が決心をしたのはその時である。それに僕には天皇制を維持するという重大な使命があった。元来、第九条のようなことを日本側から言いだすようなことは出来るものではない。まして天皇の問題に至っては尚更である。この二つに密接にからみ合っていた。実に重大な段階にあった。

 幸いマッカーサーは天皇制を存続する気持を持っていた。本国からもその線の命令があり、アメリカの肚は決っていた。ところがアメリカにとって厄介な問題が起った。それは濠州やニュージーランドなどが、天皇の問題に関してはソ連に同調する気配を示したことである。これらの国々は日本を極度に恐れていた。日本が再軍備をしたら大変である。戦争中の日本軍の行動は余りに彼らの心胆を寒からしめたから無理もないことであった。殊に彼らに与えていた印象は、天皇と戦争の不可分とも言うべき関係であった。日本人は天皇のためなら平気で死んで行く。恐るべきは「皇軍」である。という訳で、これらの国々はソ連への同調によって、対日理事会の票決ではアメリカは孤立化する恐れがあった。

 この情勢の中で、天皇の人間化と戦争放棄を同時に提案することを僕は考えた訳である。

 豪州その他の国々は日本の再軍備を恐れるのであって、天皇制そのものを問題にしている訳ではない。故に戦争が放棄された上で、単に名目的に天皇が存続するだけなら、戦争の権化としての天皇は消滅するから、彼らの対象とする天皇制は廃止されたと同然である。もともとアメリカ側である濠州その他の諸国は、この案ならばアメリカと歩調を揃え、逆にソ連を孤立させることが出来る。

 この構想は天皇制を存続すると共に第九条を実現する言わば一石二鳥の名案である。尤も天皇制存続と言ってもシムボルということになった訳だが、僕はもともと天皇はそうあるべきものと思っていた。元来天皇は権力の座になかったのであり、又なかったからこそ続いてきたのだ。もし天皇が権力を持ったら、何かの失政があった場合、当然責任問題が起って倒れる。世襲制度である以上、常に偉人ばかりとは限らない。日の丸は日本の象徴であるが、天皇は日の丸の旗を護持する神主のようなものであって、むしろそれが天皇本来の昔に還ったものであり、その方が天皇のためにも日本のためにもよいと僕は思う。

 この考えは僕だけではなかったが、国体に触れることだから、仮にも日本側からこんなことを口にすることは出来なかった。憲法は押しつけられたという形をとった訳であるが、当時の実情としてそういう形でなかったら実際に出来ることではなかった。

 そこで僕はマッカーサーに進言し、命令として出して貰うように決心したのだが、これは実に重大なことであって、一歩誤れば首相自らが国体と祖国の命運を売り渡す国賊行為の汚名を覚悟しなければならぬ。松本君[12]にさえも打明けることの出来ないことである。したがって誰にも気づかれないようにマッカーサーに会わねばならぬ。幸い僕の風邪は肺炎ということで元帥からペニシリンというアメリカの新薬を貰いそれによって全快した。そのお礼ということで僕が元帥を訪問したのである。それは昭和二十一年の一月二十四日である。その日、僕は元帥と二人切りで長い時間話し込んだ。すべてはそこで決まった訳だ。


問  元帥は簡単に承知されたのですか。

答  マッカーサーは非常に困った立場にいたが、僕の案は元帥の立場を打開するものだから、渡りに舟というか、話はうまく行った訳だ。しかし第九条の永久的な規定ということには彼も驚ろいていたようであった。僕としても軍人である彼が直ぐには賛成しまいと思ったので、その意味のことを初めに言ったが、賢明な元帥は最後には非常に理解して感激した面持ちで僕に握手した程であった。

 元帥が躊躇した大きな理由は、アメリカの戦略に対する将来の考慮と、共産主義者に対する影響の二点であった。それについて僕は言った。

 日米親善は必ずしも軍事一体化ではない。日本がアメリカの尖兵となることが果たしてアメリカのためであろうか。原子爆弾はやがて他国にも波及するだろう。次の戦争は想像に絶する。世界は亡びるかも知れない。世界が亡びればアメリカも亡びる。問題は今やアメリカでもロシアでも日本でもない。問題は世界である。いかにして世界の運命を切り拓くかである。日本がアメリカと全く同じものになったら誰が世界の運命を切り拓くか。

 好むと好まざるにかかわらず、世界は一つの世界に向って進む外はない。来るべき戦争の終着駅は破滅的悲劇でしかないからである。その悲劇を救う唯一の手段は軍縮であるが、ほとんど不可能とも言うべき軍縮を可能にする突破口は自発的戦争放棄国の出現を期待する以外ないであろう。同時にそのような戦争放棄国の出現も亦ほとんど空想に近いが、幸か不幸か、日本は今その役割を果たし得る位置にある。歴史の偶然はたまたま日本に世界史的任務を受け持つ機会を与えたのである。貴下さえ賛成するなら、現段階に於ける日本の戦争放棄は、対外的にも対内的にも承認される可能性がある。歴史のこの偶然を今こそ利用する秋である。そして日本をして自主的に行動させることが世界を救い、したがってアメリカをも救う唯一つの道ではないか。

 また日本の戦争放棄が共産主義者に有利な口実を与えるという危険は実際あり得る。しかしより大きな危険から遠ざかる方が大切であろう。世界はここ当分資本主義と共産主義の宿敵の対決を続けるだろうが、イデオロギーは絶対的に不動のものではない。それを不動のものと考えることが世界を混乱させるのである。未来を約束するものは、絶えず新しい思想に向って創造発展して行く道だけである。共産主義者は今のところはまだマルクスとレーニンの主義を絶対的真理であるかの如く考えているが、そのような論理や予言はやがて歴史の彼方に埋没して終うだろう。現にアメリカの資本主義が共産主義者の理論的攻撃にもかかわらずいささかの動揺も示さないのは、資本主義がそうした理論に先行して自らを創造発展せしめたからである。それと同様に共産主義のイデオロギーも何れ全く変貌して終うだろう。何れにせよ、ほんとうの敵はロシアでも共産主義でもない。このことはやがてロシア人も気づくだろう。彼らの敵もアメリカでもなく資本主義でもないのである。世界の共通の敵は戦争それ自体である。


問  天皇陛下は憲法についてどう考えておかれるのですか。

答  僕は天皇陛下は実に偉い人だと今もしみじみと思っている。マッカーサーの草案を持って天皇の御意見を伺いに行った時、実は陛下に反対されたらどうしようかと内心不安でならなかった。僕は元帥と会うときは何時も二人切りだったが、陛下のときは吉田君[13]にも立ち会って貰った。しかし心配は無用だった。陛下は言下に、徹底した改革案を作れ、その結果天皇がどうなってもかまわぬ、と言われた。この英断で閣議も納まった。終戦の御前会議のときも陛下の御裁断で日本は救われたと言えるが、憲法も陛下の一言が決したと言ってもよいだろう。若しあのとき天皇が権力に固執されたらどうなっていたか。恐らく今日天皇はなかったであろう。日本人の常識として天皇が戦争犯罪人になるというようなことは考えられないであろうが、実際はそんな甘いものではなかった。当初の戦犯リストには冒頭に天皇の名があったのである。それを外してくれたのは元帥であった。だが元帥の草案に天皇が反対されたなら、情勢は一変していたに違いない。天皇は己れを捨てて国民を救おうとされたのであったが、それに依て天皇制をも救われたのである。天皇は誠に英明であった。

 正直に言って憲法は天皇と元帥の聡明と勇断によって出来たと言ってよい。たとえ象徴とは言え,天皇と元帥が一致しなかったら天皇制は存続しなかったろう。危機一髪であったと言えるが、結果に於いて僕は満足し喜んでいる。

 なお念のためだが、君も知っている通り、去年金森君[14]からきかれた時も僕が断ったように、このいきさつは僕の胸の中だけに留めておかねばならないことだから、その積りでいてくれ給え。

 第二部(省略)

「第二部」は、幣原氏がなぜ非武装平和主義という考えに到達したかなど、平野氏の記憶に残る幣原氏の世界観をまとめた一文で、平野氏は「まえがき」に次のように記している。

 私が幣原先生にお会いして憲法について伺ったお話の内容は、前記のように、メモにとどめておいたのであるが、当日のお話の中には、先生が、なぜ非武装平和主義といった、誰しも思い及ばないような考えに到達されるにいたったかということについての、先生の世界観というようなものも、多分に出ていたのである。以下は、このような先生のお考えがよくわかるよう、先生の世界観で記憶に残るものをも加えて、当日伺った戦争放棄条項の生まれた事情を一文にまとめたものである。

 底本:『憲法調査会資料(西沢哲四郎旧蔵)』(国立国会図書館憲政資料室)より、「憲法調査会事務局作成・幣原先生から聴取した戦争放棄条項等の生まれた事情について ?平野三郎氏記?」(1964年・昭和39年2月)







《平野三郎氏による、平和憲法成立のいきさつなどを記した著書》

 『平和憲法秘話 ? 幣原喜重郎その人と思想』 講談社 1972年(昭和47年)4月
 『平和憲法の水源 ? 昭和天皇の決断』 講談社出版サービスセンター 1993年(平成5年)7月

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 平野氏は、『平和憲法秘話 ? 幣原喜重郎その人と思想』の「まえがき」と「あとがき」に次のように記している。


《『平和憲法秘話 ? 幣原喜重郎その人と思想』「まえがき」より抜粋》

 この日本の宝は、決して外国から貰ったものではなく、幣原喜重郎というれっきとした日本人の手に成ったものである。
 本書はこの事実を明確にし、この点の論争に終止符を打つべく書かれるものである。
 私はこの憲法を産み出した幣原喜重郎その人の生涯と思想を紹介し、世の多くの人々の理解と共鳴を得たい。
 そしてこの偉大な平和憲法が、うっそうたる大樹の如く永く日本の大地の上に繁茂すると同時に、やがて全世界に向かってこの精神が及び、人類永遠の平和の基礎となることを念願するものである。


《『平和憲法秘話 ? 幣原喜重郎その人と思想』「あとがき」より抜粋》

 終わりに、枢密院顧問会議の情景を記して置こう。
 それは枢密院そのものを廃止する最後の沈痛な会議でもあったが、そこで幣原首相が、政府の憲法改正案を説明した時である。
 以下の説明中、第九条の段になるや、声涙ともに下る調子になり、首相の老いた両眼から、大つぶの涙の玉が落ちて頬をつたわるのを、並み居る顧問官たちが認め、一同顔を見合わせたという。

 この涙こそ、憲法の真実が何であったかを語る、もっとも雄弁な証拠ではあるまいか。そしてこの涙の光と共に、日本国憲法という政治的傑作が、永久に光り輝く、と私は確信する。


 以下は、幣原首相の説明文である。

 戦争放棄は正義に基づく大道でありまして、日本はこの大旗をかかげて国際社会の原野を独り進まんとするのであります。原子爆弾の発明は、世の主戦論者に反省を促しましたが、今後は更に幾十倍幾百倍する破壊力ある武器も出現を見るでありましょう。今日のところ世界はなお旧態依然たる武力政策を踏襲しておりますが、他日新たなる兵器の威力により、短時間のうちに交戦国の大小都市が悉く灰燼に帰するを見るに至りますれば、その秋こそ、諸国は初めて目覚め、戦争の放棄を真剣に考えるでありましょう。その頃は私は既に命数を終わって墓場の中に眠っているでありましょうが、その時、私はその墓石の陰から後をふり顧って、諸国がこの大道につき従ってくる姿を眺めて喜びとしたいと思うのであります。




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 《脚注》
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1.^幣原喜重郎(しではらきじゅうろう)1872年(明治5年) - 1951年(昭和26年)
 1924年(大正13年)の加藤高明内閣で外務大臣に就任し、4度の外務大臣を歴任。第44代の内閣総理大臣(1945年・昭和20年10月9日 - 1946年・昭和21年5月22日)として新憲法の草案作りに関わり、制定時には、吉田茂内閣の国務大臣として憲法公布文に副署している。
 秘書官であった平野三郎の著書『平和憲法の水源』によれば、
 幣原は ー

「霞ヶ関の主」と呼ばれた外交畑の巨人である。
 世にいわれる「幣原外交」は国際協調、恒久平和、共存共栄、対支不干渉の四原則に貫かれ、終始一貫して変わることがなかった。しかし軍国主義が台頭し始めるや、この平和外交は一般の風潮と背離するようになり、軍部の圧力におもねる徒らな強硬論が巷に氾濫していった。そうした嵐の中にも幣原外相は厳として動かず、いささかも平和主義を曲げなかった。やがて幣原外交は軟弱の標本とされ、腰抜け外交の異名から、果ては国辱外交、売国外交とまで、ありとあらゆる罵詈雑言を浴びせられるに至った。だが、牙をむいて迫る軍部を前に、山のごとくたちふさがっていた。
 しかし、昭和六年、満州事変が勃発するに及んで退陣のやむなきに至った。(中略)
 千駄ヶ谷の幣原邸の塀には国賊、売国奴の落書きが書きなぐられ、道行く人が邸内へ投石した。「水底の没人」となった彼は、外には南京陥落、真珠湾攻撃、シンガポール占領と、勝った勝ったの街のどよめきを聞きながら、十四年間をじっと堪えていた。

 大政翼賛会にも最後まで入らず、野に下った「国賊」幣原が、戦後一躍総理大臣に返り咲いたのは昭和天皇の命であった。
 昭和20年10月6日、幣原に組閣の大命が下り、幣原は拝辞したが、重ねての天皇からのお召しに「幣原は陛下の両眼に光るものを見た」と平野は記している。かくして、その後「平和憲法」を生むことになる幣原内閣が誕生した。
2.^平野三郎(ひらのさぶろう)1912年(明治45年) - 1994年(平成6年)
 1949年(昭和24年)から5期連続衆議院議員を努め、1966年(昭和41年)から岐阜県知事を3期歴任。衆議院議長であった幣原喜重郎元首相の秘書官も努めた幣原の側近である。1964年(昭和39年)2月に、幣原から聞き取ったメモを元にした『幣原先生から聴取した戦争放棄条項等の生まれた事情について』と題する報告書、いわゆる『平野文書』を憲法調査会に提出している。
3.^平野氏が幣原元首相への聞き取りを行い、また、幣原元首相が亡くなった1951年(昭和26年)は、「サンフランシスコ講和条約」が締結された年で、9月8日に署名され、翌年の1952年(昭和27年)4月28日に発効した。この条約によって、国際法上は、連合国諸国と日本の「戦争状態」が終結し、連合国は日本国の主権を承認した。
4.^内閣の憲法調査会
 憲法調査会法の規定に基づき1956年(昭和31年)6月11日に内閣に設置された委員会的機関である。構成は委員総数50人以内(うち国会議員30人以内、学識経験者20人以内)で、委員間の互選により会長1人、副会長2人が選出された。他に必要に応じ専門委員を増置するほか、常設の事務局が庶務を処理した。1964年(昭和39年)7月3日に内閣と国会へ「憲法調査会報告書」を提出し実質的な活動を終え、1965年(昭和40年)6月3日に廃止された。(出典:Wikipedia)
5.^高柳賢三(たかやなぎけんぞう)1887年(明治20年)- 1967年(昭和42年)
 大正・昭和期の代表的英米法学者として知られ、東京裁判での日本側弁護団の一人。内閣に設置された憲法調査会会長も務めた。新憲法擁護の基本線を踏まえながら自衛権などで政府見解と憲法を如何に擦り合わせるかに力を振るった。(出典:Wikipedia)
6.^秋(とき)
「時」と同義で、『危急存亡の秋』などのように、重要な時期、大切な時機などを表す場合に「秋」とも書かれる。
7.^「西沢哲四郎旧蔵」資料
  1964年(昭和39年)7月の憲法調査会最終報告書提出の時期をはさんで調査会事務局長を務めた西沢哲四郎氏が所蔵していた同会関係の資料で、1986年(昭和61年)に国立国会図書館に寄贈された。
8.^旬日(じゅんじつ)
 10日、10日間のこと。従って、平野氏が幣原氏に話を聞いたのは、「急逝される旬日ほど前」と記されており、幣原氏が亡くなる10日ほど前のことであった。
9.^謦咳(けいがい)
「咳払い」の意で、「謦咳にふれる」は「尊敬する人の話を身近に聞くこと」。
10.^秋(とき)
「時」と同義で、『危急存亡の秋』などのように、重要な時期、大切な時機などを表す場合に「秋」とも書かれる。
11.^ダグラス・マッカーサー(Douglas MacArthur)1880年(明治13年) - 1964年(昭和39年)
 アメリカの軍人で陸軍元帥。第二次世界大戦後に日本を占領した連合国軍の最高司令官。
12.^松本烝治(まつもとじょうじ)1877年(明治10年) - 1954年(昭和29年)
 幣原内閣の憲法担当国務大臣で、憲法問題調査委員会委員長。1946年(昭和21年)2月8日にGHQに提出した「憲法改正要綱」作成の中心となった。
13.^吉田茂(よしだしげる)1878年(明治11年) - 1967年(昭和42年)
 幣原内閣で外務大臣を務め、新憲法公布・施行時は内閣総理大臣。第45代、第48代?第51代と総理大臣を歴任した。
14.^金森徳次郎(かなもりとくじろう)1886年(明治19年) - 1959年(昭和34年)
 第1次吉田内閣で憲法問題専任の国務大臣として新憲法の制定につくし、憲法公布とともに「新憲法普及会」の副会長を努めた。国立国会図書館初代館長。
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